2014年5月9日金曜日

フェミニズムと善きサマリア人

自分は根暗だし、ひねくれているという意味で性格悪いのは、間違いないんだけど、一方でとても誠実な人間である、と思う。というのはわたしがフェミニズム的に感じている違和感、不平等感というのは虐げられてきた、不当な扱いを受けてきた、というのとはまったく別種のものだからです。
「文化」や「思想」(「建築」もかもしれない)が白人の男性の帝国主義者によってつくられてきたから、女性や第三世界の人間の文化は他者表象でしかこれまで語られてこなかったという大前提に対して、これまで女性や第三世界の人間は虐げられてきたという意味で主張を続けてきたと言われています。一方でその他者表象は決して悪い面だけではなくて、それで甘い汁を吸ってた女性や第三世界の人間がたくさんいるのは間違いないしもちろんそれを主張した人もたくさんいると思う(不勉強)。
私が持ってる違和感というのはむしろこっちのほうで、自分も含めていい目にあいすぎているんじゃないか、身分不相応な立場にいながら、このマイノリティ性(それさえも女性で左利きの一人っ子、という中途半端なマイノリティ具合ですけど)によっていい目にあってるんじゃないか、もっと評価されるべき人がいるんじゃないか、という不安感をぬぐえないからこそ、男女は不平等だと思う。
その社会を利用して自分からハニートラップを仕掛けていくようなしたたかな人間になれないから私はとても誠実な人間です。
ライオットガールがすばらしいのはそれがパンクだからで、もっと平等に扱ってくださいとか、不当な目にあってきた分いい目を見させてくださいとかまったくなくて、自分たちはやりたいようにやっていくし、それを見るも見ないもあなたの自由ですよ、ただ私達以上にあなたたちは自由な立場ではないのですよ、という姿勢を崩さないところだ。
私はライオットガールかつ善きサマリア人でいたい。
善きサマリア人というのは新約聖書に出てくるイエスが作ったたとえ話で、ある人が倒れていた時にカーストの上にいるユダヤ教の司祭とかは、わざわざその人を避けるように道の反対側を歩いて行ったのに対して差別の対象であったサマリア人は、その人に駆け寄って介抱した、という話。
ちなみにイエスはユダヤ人。

善きサマリア人でいたいと思う。

*酔っ払って書いたというエクスキューズをつけておきます

0 件のコメント:

コメントを投稿