2011年11月30日水曜日

ミソジニー!

上野千鶴子の『女嫌い ニッポンのミソジニー』を読んでいる。
読み始めてああやっぱりそうなんだなあと思うのは、結局この本も、女嫌いに無自覚である(あるいはうすうす気づいている)男性向けにかかれているということである。ミソジニーに無自覚な女の人は本読まないだろう(というミソジニー)。林央子さんもこの間の講演会(@book standard)での質問に答えていっていたが、ガーリーカルチャーをいいねえと言ってくれる男の子がいなければカルチャーとして成立しないのだ。
 もちろんこのいいねえというのは、女の子をコレクションしていい気になるのとは全然別で、純粋に文化として認めてくれるということである。
riot grrrlが純粋に女の子の文化として成立しているのは元から評価なんてものをぶちこわすパンクだからだ。だからこそ素敵なんだ。

この良さは女の子にしかわからないよね♥というのはミソジニー的な、この渋さは女子供にはわからん、といってるのと全く一緒。それをカルチャーとはき違えてるものにはたまにイラッとする。
 もちろん男女の差は存在するのだから、完全な男女平等をめざすのもまたおばかであるけども、どっちかに優越感がある状態というのはやっぱりどっちの側にたってても気持ち悪い。

といいつつ私は 女の子の挨拶変わりの「それ、かわいいねっ」が言えなくて、知ってるブランドの知ってるコレクションならつい「それってあそこの春夏のシーズンのやつ?」とか知識をひけらかしてしまうという点でかなり男寄りだと思うけど。


上野さんの本にもどっていうなら、けっきょくこういうふうに全時代のものを批判することでしか、解決方法はないんだろうか。。
男子にしかわからないもの(というものがあるなら)が文化として成立するのに女子にしか分からないもの(もあるとすると)は文化としてみとめられない状況はやっぱりバイアスがかかっているけど、その改善はすでにあるものを批判するべきなんだろうか。。。

とか考えるとやっぱりピピロッティ・リストが車の窓割っていくのはか い か ん !

2011年11月13日日曜日

センチメンタル



american graffiti





ghost world

そもそも 誰かと疎遠になる ということが苦手だけど、高校卒業してからとか、成人式から会っていない友人がけっこういる。

もう友人だった人なのかも。

わがままなので、誰かの過去になりたくない から 自分が思い出したときにそれが過去になっているのがつらいのかもしれない。

とにかく私はもうすぐ全然知らない場所に行くわけだけど、これは多くの人が経験することなのだ。

なんにしろ、秋は毎年こういう気分になっている気もする。

さようなら…さようなら…


と別れを告げる前に卒制をやらねばならないのだった!

2011年11月5日土曜日

おしゃしん

東京でpepe calliforniaみたり







yugue.さんでごはんたべたり






文化の日に美術館行ったり






しました













イタリアで買ったキルシュ きれいな瓶

か つ ら





予約をとるのがめんどくさくて 家の人もだれもいったことのなかった桂離宮についにいってきた!


ブルーノ・タウトが大絶賛の桂離宮、日本の本質桂離宮、でも作られた桂離宮神話の桂離宮…(どっちも読んでないけど)



御幸門

もう門からしてちょっとへん。柱が檜丸太。
妙心寺で昔からいろいろ移動させながら使っている門をみたが、もっとしっかりしてたで…。

外腰掛

なんかもう全体的に三匹のコブタならぜったい藁で作るお兄ちゃんタイプ。。。

松琴亭 

床の間、ふすまの青い市松模様(微妙に長方形)は藍で塗られているそうです。
角屋の九条土の壁もそうだったが、青色というのは色あせてもきれいなものだなあ。しみじみ。

賞花亭
土壁 うすい!

笑意軒

なんか変なシルエット



月波楼





蛍壁


変態的建築であった。
窓の場所、があるのも和室の特徴かもしれなくて、日本の民家というのは基本的に障子であって どこかを意図的に切り取る ということをあまりしないが、桂離宮は大部分が茶室であるために庭のどこをどこから眺めるかに非常に重きが置かれているので、まあやな言い方をすると、自由はあまりないかもしれない。

桂離宮が ぴしいーっとしているのに、決して緊張させるものではないはなぜなんだろう。どこかでなんだか落ち着くかんじがするのが不思議。
庭の真ん中にある書院が、なんだかバウハウスまで彷彿させる近代建築らしさながら、あのへんの建物の合理性ゆえの寒々しさだけは一切感じられなかったのだった。


おまけ