2011年4月18日月曜日

女が階段を上るとき

おんなじ成瀬監督の『浮雲』もちらっとみたことあるけど、あっちはもう 切っても切れない てかんじだったけど、こっちは割とすっぱり切れてしまう。こっちの方が好き。




めまぐるしいよるを ひとり たえて …

どこの町にも小さな銀座があるもんですが、東京の銀座には自販機がないのです。(夏にオーストリア人が言ってた)それぐらい徹底してるのです。


トリュフォーの『死刑台のエレベーター』が才能あるフランス人の壮大な大人ごっこだったとすれば、 こっちは堂々たる昭和の大人の社会。



まあこんな大人には一生ならないけど。


見に行ったシネヌーヴォはキャバレーみたいな華麗な内装。(維新派の建築した映画館だそうです)
雰囲気ぴったし。まわりはご年配の方だらけでそれもまた好し。

2011年4月8日金曜日

空虚な

住宅特集に、鈴木了二さんの、DUB論の続きが載っていたのですが、というか物質試行の新作が載っていたわけですが、

ダブについて理解してるとは全然思ってないですが、鈴木さんのいう建築においてダブがきく、きいていない、というのはまさしく空間の問題である。

建築がゆがめば空間が歪む。 音楽も歪めば、空間が歪む。

たとえば前にdommuneで菊地成孔と大谷能生がジャズをスロー再生するといいといってたけどあれは空間が歪むからだろう。

たとえばヴィムヴェンダースの『ベルリン天使の歌』 吹き抜けのあるベルリンの図書館で、見えない天使たちがいろんなところにたたずんでいる映像がある。その空間は聞こえない天使たちのささやきで満たされている。あれも一種の歪んだ状態なんだろーな。

ないものについて考える上でダブの考え方はいろいろ考えられるんじゃないかな。



ぜんぜんまとまんない。。。