最近ブログも更新してないし、みた映画もどんどん忘れていくし、とりあえずブログにメモしていくことにします。
つい最近見た映画ばかりなのに、もう見たこと忘れてるのとかありそう。
あっ、フェリスはある朝突然に、おもしろかったな。
2012年12月27日木曜日
Attack the Block
私が勝手に全面的に信頼しているブレディみかこさんのブログで、紹介されてたので、楽しみにしてた一作。
おもしろかった。すっごく。
いつもskinsみてても思うんだけど、イギリスの不良って家とか学校ではいい子というか、すごい裏表があるというか、嘘が上手でびっくりするんだけど、これは映画だからなのか?
本当なんだとしたら、親が子供を全面的にいい子だと信じきっているか、自分のことに忙しくて、嘘を見抜けないのか、そうか子供が頭いいのか…。そのどれもか…。
エイリアンがいい。フワフワしてて口が光っててかっこいい。
おもしろかった。すっごく。
いつもskinsみてても思うんだけど、イギリスの不良って家とか学校ではいい子というか、すごい裏表があるというか、嘘が上手でびっくりするんだけど、これは映画だからなのか?
本当なんだとしたら、親が子供を全面的にいい子だと信じきっているか、自分のことに忙しくて、嘘を見抜けないのか、そうか子供が頭いいのか…。そのどれもか…。
エイリアンがいい。フワフワしてて口が光っててかっこいい。
ヘルタースケルター
映画館で見ようか結構迷ったけど、見なくてよかった…。ぜったい疲れきってたと思うから。
岡崎京子の原作ってこんなにエネルギッシュだったかな。リリコも、リリコの周りの人もこんなに頑張る女の子だったかな…。
やっぱりいちばん大きな違和感は、時代設定が現代に書き換えられているところかな。
もちろんリリコが抱えている美しくなりたい、という欲望は、現代でもまったく変わらず存在するけれど、
私は岡崎京子のマンガを今のマンガとしては読んでないし、80年代、90年代のあの空気感、を求めて読んでいたし、その違和感を全編通して拭えなかった。
蜷川実花の写真は、好きな人もたくさんいるし、別にそれを否定する気はないけど、(でもあの世界観は嫌だし、強い自立した女子像とかどうでもいいとしか思えないけど)
写真と映画で作り方が全然変わらないかんじがやっぱり嫌だ。
音楽もまったく緩急がなくて、ずっと切り詰めたかんじの音楽が流れて、沢尻エリカがキメ顔して…。場面の転換は急だし、カメラの位置もよくわかんないし…。終わるとおもいきやけっこうだらだら続くし…。
すごくつかれました。。。
あと沢尻エリカの顔が常にまつげばっちしで、それもつかれる要因だったな。
岡崎京子の原作ってこんなにエネルギッシュだったかな。リリコも、リリコの周りの人もこんなに頑張る女の子だったかな…。
やっぱりいちばん大きな違和感は、時代設定が現代に書き換えられているところかな。
もちろんリリコが抱えている美しくなりたい、という欲望は、現代でもまったく変わらず存在するけれど、
私は岡崎京子のマンガを今のマンガとしては読んでないし、80年代、90年代のあの空気感、を求めて読んでいたし、その違和感を全編通して拭えなかった。
蜷川実花の写真は、好きな人もたくさんいるし、別にそれを否定する気はないけど、(でもあの世界観は嫌だし、強い自立した女子像とかどうでもいいとしか思えないけど)
写真と映画で作り方が全然変わらないかんじがやっぱり嫌だ。
音楽もまったく緩急がなくて、ずっと切り詰めたかんじの音楽が流れて、沢尻エリカがキメ顔して…。場面の転換は急だし、カメラの位置もよくわかんないし…。終わるとおもいきやけっこうだらだら続くし…。
すごくつかれました。。。
あと沢尻エリカの顔が常にまつげばっちしで、それもつかれる要因だったな。
シャーリーテンプル・ジャポンPart1Part2
「おとなのけんか」と違って、こっちは 映画らしさ の追求。
映画と演劇の違いって、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」(映像のカットアップ)→ゴダール(音もカットアップ、コピーアンドペースト)というふうに変化してきていると思うし、この富永監督はきっと、その系列に属する人なんだなあと思う。
他の映画も、たとえば「乱暴と待機」は、元演劇をどう映画にするか、だし、「パンドラの箱」は、文学をどう映画にするか(音読とどう違うか)だと思う。
シャーリーテンプルは第一部は、映像が動く、カメラが動く(視点が変わる)ことをすごく意識させるし、アテレコのない第一部から、第二部では、音も、カメラの位置も豊かになる。その禁則された状態からの転換が鮮やかで、同じ話なのにアキない。
個人的には、第一部で自分が字幕を読んで感じる印象と、第二部で人物がしゃべる印象の間の違和感がとてもおもしろかった。
映画と演劇の違いって、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」(映像のカットアップ)→ゴダール(音もカットアップ、コピーアンドペースト)というふうに変化してきていると思うし、この富永監督はきっと、その系列に属する人なんだなあと思う。
他の映画も、たとえば「乱暴と待機」は、元演劇をどう映画にするか、だし、「パンドラの箱」は、文学をどう映画にするか(音読とどう違うか)だと思う。
シャーリーテンプルは第一部は、映像が動く、カメラが動く(視点が変わる)ことをすごく意識させるし、アテレコのない第一部から、第二部では、音も、カメラの位置も豊かになる。その禁則された状態からの転換が鮮やかで、同じ話なのにアキない。
個人的には、第一部で自分が字幕を読んで感じる印象と、第二部で人物がしゃべる印象の間の違和感がとてもおもしろかった。
Manhattan Murder Mystery
恋と映画とウディ・アレン
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