2011年5月8日日曜日

D.I.Y.とremix

今repで行われている「space ourselves」展のギャラリートーク、make編に行ってきた感想。

D.I.Y. にしろ、remixにしろ、周辺から生まれてきた文化であることに違いはないし、享受するのをやめて『自分たちで』なにかするという行動も同じなのだけど、そのスタンスには明確な違いがある。
D.I.Y.が、ほんとに一から作る!って思ってる理由はそれがないから、もしくは買うお金がないから。今あるものは信頼できないし、自分たちで一から作ったほうがぜったいいという信念で成り立ってる。
remixは元ネタに対する尊敬とかある種の思うところがあってそれを再発見、再構築する。
どちらもカウンターカルチャーだけどD.I.Y.の方がより反抗的な気がする。もっと反抗的になるとすべてをぶっ壊すっていうパンクになるんだけど

だけどなぁー、だとするとこれは厳密にはD.I.Y.じゃないんだろうなって思いながら今回のギャラリートークを聞いていた。
『私たちの』ものにするために、自らが参加して物事を作り上げてみる、っていうのはすごく共感する。より身近になるし、愛着もわくから。でもそれを信頼できるのか、っていう課題が残る。
米沢さんや、元木さんのおっしゃっていた『お祭り/広場』という公共空間についてだけど、今回の展示は、ソフト的な面が強くて、『お祭り』の提案が多かったようにも思う。公共建築って言われるとどうしても『広場』を考えてたことを思うと変な感じがした。お祭りの強度ってなにかなあと考えてみると
キーワードとしては
一過性であること
それと伝統がある

あんまり伝統とか、過去についての話はなかったんだけど祇園祭を毎年体験しているせいかわからないけれど、伝統抜きのお祭りはやっぱりお祭りとは違うもの。
だとすると新しいものを提案するのにお祭りとか、歴史のあるものを持ってくるのはD.I.Y.としてやるには大変に難しいんだろうなあと思ってしまった。
 伝統抜きでお祭りの一過性だけを取り込もうとすると、屋台になるんだろうけど、それが一過性のままいずれなくなるべきなのか、今出川のふたばの前のたこ焼き屋さんみたいに反恒久的なものになるのかは明確にしとかないとダメな気がする。うちの大学でも、プレハブ校舎で授業があって、あれは3年もあるので一時的なものではないんだろうけど他の校舎に比べてのちゃっちさとか、愛着のなさとか、適当感とか。そういうことになったら残念だなあ。。。一過性のものはずっとあったらだめだ。そういうことを思った。

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